2014年10月4日土曜日

当たり前のことを当たり前に

展覧会開催7日間が終了し、残すところ6日間となった。
28日(日)には袴田京太朗、加藤翼両氏を迎え、佐塚真啓館長とのトークイベント「美術は人のためになるのか?」が行われた。予想を上回る来館者が訪れ、大盛況に終わった。

トーク内ではピュア度100%の佐塚館長の「美術」に対する思いと言葉が会場を飛びまわった。世界平和まで引き受ける館長の言葉はトークを聞いた人たちの心をどこまで動かせたのか。
当館のFacebookページでは、館長が5月23日に投稿した『「美術」という言葉についてのメモ』がある。その中では人の感情を動かすものが「美術」であるとしてみようという館長からの提案がなされる内容だ。これは決して綺麗なものに限らないとされ、心を揺さぶり、掻き乱されるものが言い含まれているようにも受け取れる。
では、感情が揺さぶられる楽曲やデザインや人が作ったもの全てや人為的ではない自然などをそう言っていいと断言までには至らない。
そのことを念頭に置くと、バッと間口を広げ、様々なものに「美術」という言葉を当てた時に発生する《肯定》と《否定》や《躊躇》などについて、再び私たちはどうしてそういう気持ちが生まれたのかをもう一度考えてみよう、という意味が言い含まれているのだろうと私は推測している。

したがって、この館長からの提案は無作為に「美術」のジャンルを広げるためのものではない。あくまで、ここで誤解がないように代弁したいのは<そうではないもの>と「美術」の区分けを言葉から説明しようとする館長の試みである。

ただ、私が一つ違った観点から注目したいのは「術(すべ)」という言葉についてだ。「術」は技術をともなった人の行為を意味する。つまり、美術とは作家の「作為」の現れである。それは単純に作業としての制作過程、合理的行為も含まれれば、第三者へ作品を観せるための作為であったりする。
そして、私たちは「美術」そのものを見たことがないように、作家が作り出した作為の痕跡や塊である作品からしか、知りようがないのである。美術を確かめる手段は作家の作為に触れること(鑑賞)からしか到達できない。

ただ、私は、上記の作為の話では作品が作者と鑑賞者のコミュニケーションを図るツールということを言うのではない。発する者と受信する者との間には絶対に相容れない関係があるし、作品によって、作者と鑑賞者の間でフラットな関係を築けることはないと思っている。
むしろ、美術というのは根源にあるものは己を知ること、人や人間が何であるかを思慮したいち過程の記録媒体ということをはっきりさせておきたい。
私たちというのは不自由なもので、未だに私たち自身を知ろうとその術を探し続けている生き物だ。

ただ相容れない関係であっても、「人間とはなにか」「わたしは何者であるか」あるいは「私たちはどこから来たのか」「どこへ行くのか」などの問いについて、「美術」は限りなく可能性を指し示してくれるものであるし、共有可能な問いに対して向かい合う姿勢を作り出せる特殊な存在だと思っている。

本展は各作家の作為が会場に点在し、私たちのこれまでとこれからを共有できる展覧会になっている。




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