2014年9月20日土曜日

イジメをなくそう!!

「イジメはなくせる!!」
と唐突な言葉を書き置いてみる。

こんな言葉を書くこと、言うことは容易い。タイピングでも1秒かからないかだ。

ただ、「イジメ」はなくならない。
と、私個人は思う。

それには二つの理由が考えられる。

一つは「いつかはイジメはなくなる」と思っている傍観者の存在。それから、「いつかはイジメはやむだろう」と思っている当事者、「いつかはイジメをしなくなる」と思っている加害者。
この三者が「いつかは・・・」と思い続ける限り、イジメはなくならない。

もう一つは、イジメのような強者と弱者の関係を「いけない」と規範を持ちながらも、イジメがいけないことだと説明できない大人たちの存在。
社会で所属する集団があり、肩書きを持ち、日々を生きているすべての者たちが、実感の大小はありつつも、生活のために貨幣の対価として労働力と時間的な拘束を受けている。
もちろん、労働には貨幣以外の目的を持つ者も大勢いるだろう。

ただ、競合社や前年の水準を上回ろうとする企業努力の中では他者との「戦い」が強いられているし、勝ち抜く術を身につけなければならない。つまり、自ら強者と弱者を作り出す当事者たちが、社会との接続がまだ希薄な子どもたちにどう伝えるのか。

イジメと企業競合がどうちがうのかを説明できる大人は少ないのではないかと思う。



上記のお題へ思い着いたのは、今回の国立奥多摩美術館「13日間のプレミアムな漂流」では「人間味溢れた」展示構成になっているからだ。

人は様々な知識を得て世を知り、人を見て「人」というものを知る、そして自分という存在が唯一無二であり、代替えがきかないことを知る。
そのために眼差しを対象へ向ける作用や体験できる行為や経験が蓄積した層などそういったものが個々の作品に内在しているように見えてくる。
けっしてきれいとは言えないかもしれない、泥臭く感じるかもしれない。


私はでもそれでいいと思う。


展示・作品を見た後、きっと「これからの自分をどう作っていくか」についていやでも考えたくなる。そういう展示になっています。


2014年9月13日土曜日

本日、国立奥多摩美術館 開館!!

【写真:館長と奥多摩の男】

PHOTO BY 赤石隆明


本日第二回目「13日のプレミアムな漂流」が始まりました。


17:00プレミアムなオープニングです。

19:00からは小林優太によるゲストパフォーマンス舞踏「城」があります。

連休のご予定に余裕のある方は小旅行気分でお越しください。

モデルルーム「再想起」も本日オープンです。


本日、展覧会初日を迎えるにあたり、私は前回の展覧会を少し振り返ってみることから、初めてみようと思う。
第一回目の展覧会「国立奥多摩美術館 -青梅ゆかりの名宝展-」を振り返ってみることで、多くの人に一体何が起こっているのかが少しは分かってもらえるのではないかと思ったのである。


2012年11月に「国立奥多摩美術館」は開館した。
参加作家は太田遼、河口遥、永畑智大、二藤健人、原田賢幸、山本篤、和田昌宏の7人。特別展示には小鷹拓郎、Katya&Ruithが参加することとなった。

《太田》はアトリエという作るスペースであり、美術館という見るための展示スペースの双方の間に位置するグレーな空間を天井部分に作りあげた。部屋を覗き込めば既視感に溢れた内装でありながら、流動的な空間の内部を見るものとして対峙していることへの違和を覚えた。

《河口》と《原田》は共作で行い、美術館地下に特殊なカフェを開いた。ラーメン、コーヒー、ケーキなどメニューは一般的で貨幣と品物の交換がなされる場面では、等価交換が成立しない儀式めいた痛みや快楽まで押し付ける。地下の下水溝からは原田の声が聞こえ漏れ、卑猥な言葉を耳にする。

《永畑》は巨大なししおどしを作り、隣接する小川からポンプで汲みあげた水は、ししおどしによって建物1階から地下へと落ち、また小川と合流し、循環する。

《二藤》はロープを美術館の建物自体にはわせた。ロープは二藤の行為と軌跡を示しながら、建物内には集合したロープの端をまとめ、一つの球体を作り出した。内と外の関係とともに、ロープによって建物やその構造をトレースしてみせた。


《山本》はキャタラ祭を開き、噂と真実の境界を曖昧なままとし、どこでも行われている地域の通例儀礼の怪しさに迫った。

《和田》は村上裕という人物を撮影し続け、狂気と平常の混沌が一つの個体に統合されながら、統制が取れず、個体の周りが崩れ、あるいは個体の精神が不安定になり、「狂っているのは俺かお前か」と鑑賞者にさえ見定めようのない混沌に巻き込んでいく。

《小鷹》は国立奥多摩美術館をゴールに設定し、トラックの運転手などに不詳な美術館があることだけを告げ、ヒッチハイクを繰り返した様が上映された。

《Katya&Ruith》はカップルであり、共同でパフォーマンスを披露する。他者と繋がりを持ち、両者が同期し、互いに影響を与え、共有化を図ろうとしていた。

いま振り返ると2年前の展覧会では人々がいち個体であること、つまり集団の一部でありながら、絶対的な他者と私、個体としての器(人体)を超えて交わる意識の在り様はあの展示でしかみせられないものだったのだと今更ながらに思う。
それはたとえ、マグレで生まれた展覧会構成だったかもしれない。ただ、いまこうして起こっていることの内部で、当事者として私自身思うことは、「必然」の単語を持ち出すには気恥ずかしく、「起こるべくして起こした」出来事であったことであると言いたい。

さて、今回は何が起こるのか、皆さんの目で確かめてもらいたい。

そして、見た人と僕らは展覧会のこと、国立奥多摩美術館のこと、作家、作品のことをあなたたちと話したい。