2014年10月13日月曜日

THE☆和田昌宏

10月12日。三連休中日。
いよいよ、開催日が残り二日間となった。


昨日投稿した小鷹拓郎(国立奥多摩美術館館長)の嫁と母考案のおっぱん、チンパンマンは完売。60個あったはずが、次々と消えていった。明日来館する方はごめんなさい。


MARKによるライブは大盛況。
「人に届ける」ということはどういうことなのかを彼女からの歌から考えさせられる。装いやパッケージング、よく見せることの方法はいくらでもある。ただそういった表面的なものはもはや手段であり、良いものも悪いものもそういった装いをまとい、ユーザーにその判断を委ねてしまう。委ねることは必ずしも悪いことではないかもしれない。けれど、受け手であるユーザーからしてみれば、本当に良いものだと実感する時はそんな表面的なものは眼にも入らない。眼にいれ、比較検討するときは、良いものとしてみるよりも選択肢に優劣を付け、「良いもの」と見立てることをしている。
本当に良いものと出会えた瞬間はそんな思考工程を踏むことはない。
今日、MARKの歌にはそれが見える瞬間があったと思う。






最終日、佐塚館長を交えて参加作家の牛島達治、冒険家の関野吉晴とのトーク「風の谷の男の話〜100人分の豚の丸焼き晩餐会〜」の仕込みが始まりました。武蔵野美術大学の学生を従えて、関野さんが準備を進めています。



>>いぶり始めた生肉

>>豚の半身を手際よくブロックに解体

>>やぐらの上に乗せ、いぶっている様子

>>やぐらの前で火の様子を見る関野さん

トーク修了後の16:30ごろから来館者へ振る舞う予定です。
トークでは牛島さんや関野さんの両氏が「制作と発表」や「冒険」を継続するために、社会の中でどうしてきたのか、またどう局面を乗り越えてきたかなどを中心に国立奥多摩美術館の継続、若手作家のこれからの活動の智慧になるような内容を世代を超えたクロストークが行われる予定です。





10月4日投稿「当然のことを当然に」では、作品は具体的な問いを前提として、作者と鑑賞者が共有可能になると綴った。物理的な所有がなくとも、問いとともに作者が作り出した視点とそれに対する回答が鑑賞者との間で共有できる。それが『美術』の一つの特性であると思っている。物理的な「何か」がなくとも両者の間をつなぐことができるものだと思う。
ただ、他者との共有作業には、内と外の関係ではないけれど、歴史、社会、経済など、美術以外の世との接続が必要である。その理由は「いまなぜ」「かつてなぜ」という問いについての糸口となる接点がなければ、他者が入り口を見失い、共有そのものが危ぶまれるからだ。そればかりか、鑑賞者の美術への感心や期待が冷めたものとなってしまう。



そういった中、本展に参加する和田昌宏はこれまでにない特殊な存在ではないだろうか。

妻、義父、主婦、知人、夢、労働。これらは和田の近年の作品に登場する主題である。

和田という個人に近しく、内在し、直面する問題と言える。表面的に捉えてしまえば、これらの主題は作家個人が抱える主題と受け止められてしまうかもしれない。しかし、これらの主題は不特定多数に共有が可能なほど私たちの側にもある。そのため、作品中で和田が各主題から私たちは鑑賞の際に一つの水準を自動的に設定している。自分の経験や知り得るものを同時に見ている。しかし、映像や作品を鑑賞していくに従って、ギアを緩やかに変速させられ、各主題に内在し、関係する問題を想起させる。

2013年の神奈川県黄金町での展示作品「A song for my son」は好例である。黄金町は風俗店が軒を連ねていた歴史を持つ。戦後から徐々に店舗が増えていった店舗は2003年に行政・警察・大学などが連携を図り、「横浜開港150周年」に合わせ、2005年より摘発が始まった。そして、2006年に文化芸術振興拠点として芸術活動が始まったという歴史を持つ場所だ。

「A song for my son」ではひたすら薪割りをする行為を労働に見立て、労働の成果として得た薪はストーブへ投入され、燃料とされる。労働の対価とされた薪は煙となり、空高く消え、ストーブの上にあるケトルは水蒸気を発し、両者は展示空間の温度・湿度を維持するものとなる。温度や水蒸気と眼に見えない物や水から気体への変化は貨幣を使用し、別のものへと変わっていく様のようにも思える。
生きることの大半の時間(睡眠をのぞいて)は労働へと割かれ、得た貨幣は留まること無く大半は通過し、その他の物へと形や姿を変えつつも、生活の継続によりそれらもまた変化し、また消えていき、私たちを通貨していく。
これは社会という枠組みが個人の労働に先立って形成され、また個人へ対価が還り、巡っていくものであることを言い含んでいる。社会に貨幣がもたらされたとき、私たちの社会で穀物を蓄えることから、それを金銭に変え、別の物で半永久的に蓄えることを覚えた。しかし、その反面、私たちの社会では平等は消え、格差が生じたのである。

更に作品中の映像では和田自身の血を蚊(第一世代)にすわせている。血を吸わせた蚊(第一世代)に卵を産ませ、孵化させ、和田と第一世代の蚊との混血である子どもが生ませた。その蚊(第二世代)は展示会場内に放たれ、観賞者は血を吸われ、観賞者と蚊(第二世代)との混血が生まれ、和田と第一世代の蚊との繋がりが生じる。

黄金町の場が持つ事実は社会の中でも個人対個人の関係によって生じた貧富の差であることを認識させる。私たちと切り離し、法律により摘発され、なかったものとして改善しても、根本にある個人対個人の関係によって生み出された貧富については何も変わらないままであることに行政は無自覚であり、摘発により場が解体されてもなお、その女たちは他の地で男に買われるのであろう。

労働は対価として貨幣を生む、その給与により生活はまかなわれ、食品、衣服、住宅など生活に必要な物へと化ける。安定した価値を共有し、等価交換された物たちはそれ自体が第三者の労働と対価を生み、人から人へ渡り、繋がっていく。ただ、他者とつながりながらも、個人の対価は刻一刻と対価物へ交換され続ける。
そして、蚊は第一世代、第二世代と和田の血や観賞者の血を糧としたもので世代をまたぎ、繋がりながらも、鑑賞者は違いは見ず、毛嫌いされる「蚊」として表面的に見てしまう。それこそが行政の持っている問題解決を上辺だけで行っている状態と多重構造で見えてくる。


繋がりを箇条書きにしてみると

薪割り=労働
ストーブの燃料(薪)=貨幣
蚊の吸血=和田との性交
室内にこもる熱、ケトルの水蒸気=蚊の産卵の環境整備=家庭を支える父親像
孵化した蚊=和田の息子
貨幣=不平等の成立
黄金町=ちょんの間=不平等の中の需要と供給
ちょんの間の摘発=市街整備=表面上の格差の消滅
市街美化=アートの活用
孵化した蚊の吸血=鑑賞者と和田の血縁
鑑賞者の蚊に対する態度=虫としての蚊=表面上の捉え方
表面の捉え方=行政の市街整備とアートに対する態度


行政はそれを摘発し、市街整備と美化を行った。過去を消すようにアートで歴史に蓋をした。その行政の表面的な指導を言及する作品を見せた和田は個人の目線から美術を扱う行政や社会へ見せつける。労働を主題とし、貨幣を生んだ私たちは自ら不平等を作り出した事実を。しかし、そのことを誰かに怒り、対立を生むことで何かを変えたことは過去にあっただろうか。ただ、私たちは互いに繋がり合い、協力し合うことでしか、前進はできない。そのことを和田は唄った。 


いま何かを失いかけている人、失うことへの恐れ、それこそ大切な物が分からなくなってきている人にこそ和田の作品を見て欲しい。

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